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文学教育の原理的研究−「読みの体験にはまる」ことを手がかりとして−

工藤繁隆(Shigetaka Kudo)



1.はじめに


 学習者は、授業の中で立ち上がっていく多種、多様な「テクスト」を「読む」ことを通して、それぞれの「自己」という「テクスト」を作りあげていくことになる。この「自己」というテクストを作りあげることこそが、「主体的な読者」として学習者が立ち上がることであり、文学の授業でおこなわれるべきことであると考える。R.スコールズの言う、「テクストの中のテクスト」「テクストについてのテクスト」「テクストに対立するテクスト」三種の「テクスト」を作りだすという営みとは、「テクスト」と向き合う「自己」を意識化し、相対化していく営みでもあるからである。
 授業という場においては、作りあげた「自己」という「テクスト」もまた、交流などにより読まれる対象となりうるものである。読者とテクストの間で起こった「読み」から、「自己」という「テクスト」を作りあげ、さらに「自己」という「テクスト」同士の「読み」−「読まれる」関係へと導いていくことが求められるのではないか。
 つまり、テクストを「批評」するという行為によって、「テクストに対するテクスト」が立ち上がり、その「テクスト」を交流させ、「読み」−「読まれる」という関係を作ることによって、「自己」の変容を促していくことにつながるのだと考える。
 スコールズの唱えた「読むこと」・「解釈」・「批評」は、授業の場において必ずしもそのまま段階的に行われるものではないだろう。それぞれが互いに影響し合い、関連し合って行われる活動であると捉えることができるからだ。しかし、「批評」を行うという姿勢を持つことは重要な要素であると考えている。つまり、「批評」の教育を行うことにより、学習者は、テクストの作り手の意図性を捉え、反応していくことが出来るようになるということである。それは「テクストを使いこなす」力である。そしてその力によって作りだした「テクスト」を用い、他の学習者との交流を深める、つまり「読み」−「読まれる」関係を作りだすことが、「自己」の変容を促す契機となりうる。そして、「テクストを使いこなす」ために必要となってくるのが、「読みの体験にはまる」ということであると考える。
 よって、「読みの体験にはまる」という現象を解明することが今発表の目的である。


2.「読むこと」への没入体験


 発表者が考える没入体験とは、文学テクストを読んで、つまり学習者が文学テクストと出会うことによって、そのテクストに向き合い、「読み」を行う過程を楽しむということ、その読みの体験に「はまる」ということである。このような、読者の没入体験を明らかにするという視座に立った理論として、経験志向の読者反応理論がある。経験志向の読者反応理論とは、テクストに対する読者の没入や経験の本質に焦点を当てた理論の総称である。リチャード・ビーチは、その志向の理論家たちが示してきた読者の反応過程のモデルを、以下の5つの柱としてまとめている。


○参入すること
−感情的に没頭するようになること、テクストに共感すること及び同化すること
○構築すること
−もう一つの世界に入り込んで、その世界を創造すること、登場人物たちや出来事、設定を自らの心のなかで膨らませていくこと
○イメージ化すること
−視覚的な映像を創造すること
○関係づけること
−実生活上の経験を目の前のテクストと関連づけること
○評価すること/内省すること
−テクストに伴う自らの経験の質を判断すること(p.80)*1


 この理論は、読者が登場人物に肩入れしたり、イメージを視覚化したり、個人的な経験をテクストに関連づけたり、あるいはテクストの世界を構築するその方法を解明していくものである。そこでは、読者は主観的な自己を有する主体であり、それぞれの主観的経験をもとにしてテクストと交流し、意味を構築するというきわめて能動的な主体として規定されている。また、様々な経験を背負った読者が様々なコンテクストを持つテクストと交流することにより、意味を構築する、という行為として「読み」が捉えられている。


 「読みの体験にはまる」とは、先に挙げた5 つの柱のうち、「参入すること−感情的に没頭するようになること、テクストに共感すること及び同化すること」にあてはまるものであると考える。また、そのはまり口としての読みの方略が、テクスト・ストラテジーということになる。
 無論、ただ楽しんだだけではそこに学びが生まれたとは考えにくいだろう。学習者が読みの体験にはまった後、そのテクストを使いこなすことができてこそ、そこに学びが生まれたと言えるのではないだろうか。これは、先に挙げた5 つの柱のうち、「評価すること/内省すること−テクストに伴う自らの経験の質を判断すること」に当てはまる考えである。
すなわち、「参入すること」においては無意識的であった「読み」を、「評価すること/内省すること」の段階で意識化させるということである。
 読みの体験にはまり、熱中することにより、学習者は「読者」としての読みを作っていくこととなる。そして、そうした「読み」によって作り上げた解釈を言葉にして表現することができ、文章に対して批評を行うことができること。このような段階に進むことが、「テクストを使いこなす」ことができるということにつながっていくものであると考える。それは、テクストを使いこなすためには、いったんテクスト・ストラテジーに取り込まれる必要があると考えるからである。テクスト・ストラテジーに取り込まれるという段階を踏まなければ、テクストを使いこなそうと思っても、それは結局うわべだけの薄い解釈や批評になってしまうのではないだろうか。
 つまり、主体的な読みのできる読者の育成の契機となるのは、テクストと出会い、読みの体験を行うことにあると考えるのである。
 経験志向の読者反応理論の代表的理論家であるルイーズ・ローゼンブラットは、テクスト経験についての「導出的」(efferent)な様式と「審美的」(aesthtic)な様式という二つの様式を挙げ、それぞれを区別した。その二つの読みを以下にまとめる。


「導出的」な様式… 情報を獲得しようという実際の欲求に突き動かされた読者が、そのテクストに何が述べられているのかということを理解しようとするもの。
「審美的」な様式…テクストを潜り抜けることによって育んだ自分だけの経験や、テクストに対する自らに固有の没入によって反応すること。この読みでは、テクストの情報を引き出すのではなく、テクストのことばと交わる経験に没入することが求められる。


 ローゼンブラットは、読者がこの「導出的」な様式と「審美的」な様式との間に横たわる連続体上を行きつ戻りつするとし、テクストの意味は、あるコンテクストの内部でテクストと読者の間に営まれる交流から生じるとする交流理論モデルによる読者反応研究を進めていった。そして、現状の「読み」の授業の場では往々にして「導出的」な読みしか導いてないと批判した。
 それでは、このように「導出的」な様式と「審美的」な様式を行き来しながら読者が経験していく、「没入体験」とは、どのようなものであるのか。


3.フロー体験


 「没入」とは、なにかに没頭したり、熱中している状態のことであり、そのときやっていることや目の前で起こっていることに、心が入り込んでいる状態を指している。心理学の分野において、このように人が没入しているときの主観的な状態に焦点を当てたのが、チクセントミハイの「フロー体験」の概念である。「フロー」と言う言葉は、人々が最高の状態の時どのように感じたかを表現する際、たびたび「私は流れ(flow)に運ばれたのです」や「流れている(floating)ような感じだった」と述べたことに起因する。つまり、この「フロー体験」の概念は、内発的に動機づけられた活動を行っている人々に、活動に従事する理由をたずねることによって、うまくいっているときの経験の特徴を抽出したものである。


 活動している時にどのように感じているかについての彼らの説明から、私はフロー−一つの活動に深く没入しているので他の何ものも問題とならなくなる状態、その経験それ自体が非常に楽しいので、純粋にそれをすることのために多くの時間や労力を費やすような状態−という概念に基づく最適経験の理論を作りあげた。(p.5)*2


このように、フローとは、「一つの活動に深く没入しているので他の何ものも問題とならなくなる
状態、その経験それ自体が非常に楽しいので、純粋にそれをすることのために多くの時間や労力を費やすような状態」と定義されている。
 また、「最適経験」については、


 最適経験とは、目標を志向し、ルールがあり、自分が適切に振舞っているかどうかについての明確な手掛かりを与えてくれる行為システムの中で、現在立ち向っている挑戦に自分の能力が適合しているときに生じる感覚である。(p.91)*3


と述べている。
 チクセントミハイは、「フロー体験」の状態へ入る条件として、次の二つの条件を挙げている。


@明確な目標とフィードバック
A機会と能力のマッチング


 @は、一連の明瞭な目標に取り組み、活動の進展について連続的にフィードバックを受け取ることができ、また、そのフィードバックにもとづいて対応を調整することで、ちょうど手頃な挑戦、自分の能力を十二分に発揮させる挑戦に取り組むことができる状態にあるということである。Aは、現在の能力を伸長させる(現在の能力よりも高すぎも低すぎもしない)と知覚された挑戦、あるいは行為の機会の存在のことであり、自分の能力に適合した水準で挑戦しているという感覚を持つという状態である。
 このような条件のもとで、経験はある瞬間から次の瞬間へと切れ目なく次々と広がりをみせ、人は主観的な状態へと入るという。そして、そのような状態には、以下の六つが存在する。


  @注意の集中
  A行為の統制感覚
  B行為と意識の融合
  C内省的自意識の喪失
  D時間感覚の変容
  E自己目的的経験


 一般的に没入体験は快感情や動機づけをともなうものであるが、それを自己の成長をともなうような体験にまで深めるには、一方的に対象に働きかけるのではなく、対象との相互作用に惜しみなく心理的エネルギーを傾け、その中から得られる身近なフィードバックをもらさず受け取るような感知力を意識的に高めていくことが必要であると思われる。その結果、おのずと対象との相互作用がスムーズに行われるようになり、その体験が後に内省されたときに、効力感や自己肯定をともなうような喜びを生み出すと言えるだろう。
 つまり、没入体験とはただ集中している状態を指しているのではなく、集中の過程で環境の把握の仕方が極めて受動的になり、眼前あるいは意識内に広がる世界に柔軟に応じることによって、環境との相互作用がスムーズに行われている状態を指しているということである。その過程、あるいは環境に働きかけて、受容された感じが、一体感や快感情などの内的な報酬をもたらすのではないだろうか。環境とのスムーズな相互作用を行うには、過去や未来はいったんおいて、いま目の前にある対象に関わるものすべてにエネルギーを傾ける必要があることから、没入と内省の繰り返しが人を成長へと導くのだ、と説明されている。


4.「自己目的的な自己」とは


 先に挙げた六つの主観的状態のうち、E自己目的的経験について、チクセントミハイは次のように説明している。


 最適経験の基本要素は、それ自体が目的であるということである。たとえ初めは他の理由で企てられたとしても、我々を夢中にさせる活動は内発的報酬をもたらすようになる。(中略−引用者)自己充足的活動、つまり将来での利益を期待しない、することそれ自体が報酬をもたらす活動をいう。(p.86)*4


 我々が行うことのほとんどは、純粋に自己目的的でもなければ外発的(外的な理由によってのみ行われる活動を指す)でもなく、両者が混ざり合っているだろう。しかし、最初は意思に反して強いられたものが、時とともに内発的な報酬をもたらすことになることがある。


 子ども達−そして大人たち−は、注意の再構造化という困難な活動の第一歩を踏み出すのに外的な誘因を必要とする。最も楽しい活動というものは自然なものではない。それは初めのうちは気の進まない努力を要求する。しかし人の能力にフィードバックを送り返すという相互作用が始まると、それは内発的な報酬をもたらし始めるのが普通である。(p.87)*5


 「自己目的的な自己」とは潜在的な恐怖を楽しい挑戦へと変換し、したがって内的調和を維持する自己である。決して退屈せず、めったに不安に陥らず、現在進行しているものごとに関わりを持ち、そしてフローしている人は必ずといっていいほど自己目的的な自己をもつ人といえよう。この語は字義的には「自己充足的な目標をもつ自己」を意味し、このような人は自己の内側から生じる目標以外のものを比較的わずかしかもたない、という概念を表わしている。ほとんどの人の目標は直接的には生物学的欲求や社会的慣習によって形作られ、したがってそれらの起源は自己の外にある。自己目的的な人の基本的な目標は、意識によって評価された体験、したがって独自の自己から生じている。(p.261)*6


 チクセントミハイは、このような自己を発達させるルールとして、以下の三つを挙げている。


  一、目標の設定
  二、活動への没入
  三、現在起こっていることへの注意集中


 そのそれぞれについての説明は以下の通りである。


一…フローを体験するには、その達成に努めるべき明確な目標をもたねばならない。自己目的的な自己の持ち主は、あれこれ迷うことなく、また最小限の動揺で何をすべきかを選び取ることを身につけている。自己目的的自己をもつ人ともたない人との基本的な相違の一つは、前者が自分の追及する目標が何であれ、ほかならぬ自分がそれを選んだということを知っているということである。この認識は、次のような二つの結果を生む。一つ目は、自分が自分の決定の主体であるという感情をもち、より強力に目標に献身するというものである。その行為は確実であり内側から統制されている。二つ目は、その目標は自分自身のものであることを知っているので、その目標を維持する理由が意味を持たなくなった時には、目標はいつでも容易に修正されるというものである。その意味で、自己目的的な人の行動は、より一貫しているとともに、より柔軟である。


二…行為のシステムを選択したら、自己目的的パーソナリティをもつ人は、自分の行っている全てに深く没入するようになり、現在行われていることに注意が集中される。このようなことをうまくやり遂げるには、挑戦対象と自分の能力との間のバランスをとることを身につけなければならない。よって、行為のシステムへの参与を達成するためには、環境からの要求と自分の行為能力との間に、比較的細かな段階づけが設定されねばならない。
つまり、個人の行為がその行為への挑戦の機会と適切に合致している場合に限り、真に行為システムに没入することができる。また、行為システムへの没入は、注意の集中能力によって大きく促進される。


三…集中力は行為システムへの参与へと我々を導いていくが、たえまない注意の投入だけが、その行為への参与を維持させることができる。自己目的的な自己をもつということは、行為システムへの没入を維持する能力があることを意味している。その行為システムとの関わりは、自意識を知覚の外に追い出すほど深いものになるが、時々それは逆転し、自意識の喪失が行為システムへの深い没入を可能にすることもある。つまり、自己目的的パーソナリティーを構成する諸要素は、相互に(自己と行為システム)原因となり合うという繋がりによって結びつけられるということである。


 このように、フロー体験とは、目標を志向し、自分が適切にふるまっているかどうかについての明確な手がかりを与えてくれる行為システムの中で、現在行っていることに自分の能力が適合しているときに生じる感覚である。そのとき人は、自分の行為をコントロールできていると感じる。注意が強く集中しているので、その行為と無関係のことを考えたり、あれこれ悩むことに注意を割かれることもない。そのため、自意識は消え、時間の感覚はゆがめられる。このような経験を産む活動は非常に楽しいので、人々はそこから得られる利益についてほとんど考えることなく、それ自体のためにその活動を自ら進んで行うようになるというのである。


5.「読みの体験にはまる」ために


 4.において目標とされている、「自己目的的な自己をもつ」ということは、すなわち「目標を設定することを知る」「能力を伸ばす」「フィードバックに敏感になる」「注意集中や関与の方法を知る」、ということである。
 文学作品を読む際にも、このような体験が必要であると考える。つまり、テクストを読む際に、「一、目標の設定をすること」・「二、活動への没入をすること」・「三、現在起こっていることへの注意集中をすること」の三つの状態を目指すということである。そうして、「自己目的的な自己」を育てていくことが重要であると考える。
 あるテクストを読むということにフローしていくためには、まず明確な目標設定が必要であると考える。それは、テクストと向き合った読みとは、読み手自身の問題として、授業として読むから、や、
興味として読むから、など、その目的に大きく左右されると考えるからである。それがなければ、ローゼンブラットのいう「導出的」な様式の読みにおいて、情報を獲得しようという欲求は起こり得ないのではないか。明確な目標を持ち、「自己目的的な自己が読んでいる」という感覚を得ることによって、そのテクストに何が述べられているのかということを理解しようとするのではないかと考える。
 その際、フローへと導くために、教師の働きかけが必要となってくる。初発の感想や、テーマを設けた交流などが考えられるだろう。これらの働きかけは、学習者に外在的な目標を与える行為として捉えられるが、このような外在的な目標をきっかけとして、この後学習者が「自己目的的な自己」を形成するための第一歩となりうるだろう。その意味で、読書のアニマシオンもまた、重要な役割を担うことのできる働きかけである。
 また、外在的であれ内在的であれ、目標を設定した読者は、続いて活動への没入へと移行することが目指されるが、その際に読者を導くのは、テクストに仕掛けられているテクスト・ストラテジーであると考える。テクスト・ストラテジーに反応することによって、読者はテクストから、再発見や感動を覚える可能性を得る。そのようなフィードバックを得ることによって、さらなる没入へと進んでいくのではないか。
 このように、読みのフロー体験を起こすためには、目標設定とフィードバックが大きな役割を占めるのではないかと考える。


6.おわりに


 以上述べてきたように、読み手がテクストへの没入体験を起こすには、これらのフローの要素を満たす必要があると考える。そうであるとするならば、読み手にフロー体験を起こさせるような状況をいかに作っていくかが大切となってくるだろう。また、この理論が「読むこと」の理論として用いることができるかどうかの実証的な研究を進めていく必要がある。さらに、その際、テクストを読むという事前の動機づけや経験との関わり、読書行為に関わる感覚が鋭くなり、そうでない感覚は鈍化するということ、読書行為の最中に対象との相互作用が行われていることや一体感が得られていること、その体験はたびたびふりかえられ、没入感覚に動機づけられることになるということ、を考慮に入れる必要がある。今後の課題としたい。


7 . 注および参考文献


・*1 リチャード・ビーチ 山元隆春訳『教師のための読者反応理論入門−読むことの学習を活性化させるために−』、渓水社、1998
・*2-*6 M.チクセントミハイ 今村浩明訳『フロー体験 喜びの現象学』、世界思想社、1996
・W.イーザー 轡田収訳『行為としての読書―美的作用の理論―』、岩波書店、1982
・R.スコールズ 富山太佳夫訳『記号論のたのしみ 文学・映画・女』、岩波書店、1985
・R.スコールズ 折島正司訳『テクストの読み方と教え方 ヘミングウェイ SF 現代思想』、岩波書店、1987
・上谷順三郎『読者論で国語の授業を見直す』、明治図書、1997
・山元隆春『文学教育基礎論の構築−読者反応を核としたリテラシー実践に向けて−』、渓水社、2005
・山元隆春「読むという出来事を誘う力−〈誤読〉の豊かさについて−」、『日本文学』、1996.1
・上谷順三郎「国語教育における読者論導入をめぐる議論の総括とその展望−イーザーの『行為としての読書』以後を中心に−」、『国語指導研究 第三集』1990.3




(『教育学研究紀要』第51巻、中国四国教育学会、2005) 



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