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   つなげる力、つながっていく力

大塚崇史(Takashi Otsuka)

0.はじめに
 2003年に実施されたOECDの「生徒の学習到達度調査」(PISA)の結果を受け、日本の子どもたちの「読解力」の低下を指摘する声がマスコミを中心として大きくなっている。PISAの結果の内実、何をどのように見て日本の子どもたちの「読解力」の順位が急落したのか、ということについて提案者は十分に理解していないが、昨春、現勤務校に着任してから一年半、国語の授業を通し、子どもたちの「読むことの力」については感じ続けてきたことがある。今回の研究協議の主旨に沿うものとなるかどうかはわからないが、国語という教科に関わる者として、今、子どもたちに欠けている「読むことの力」、そして子どもたちに身につけさせたい「読むことの力」について、実践を通して考えたことをまとめてみたい。




1.断絶した「読み」〜二つの「誤読」から〜
 発表者は読むことの学習においては、第一時に必ず初読の感想を書かせる方法をとっているが、一年生の国語総合で扱った随想「さびしんぼうだった青春時代」(大林宣彦)の初読感想のなかに次のようなものがあった。


 子どもの頃はとても神経質だった大林さんは思いきって24、5歳の頃、勇気を出して病院で大手術をうけたんだな(A子)


 この随想は映画監督の大林宣彦が自分の青春時代を回顧したもので、自分の殻に閉じこもりがちだった少年時代から映画制作を通して脱却し、周囲の人たちとの関わりのなかで「対話」することを覚え、人間的に成長していったことが書かれている。A子が感想のなかに書いている「大手術」とは、大林が一念発起し、内向性の象徴だった自分の本のコレクションを他人にすべてあげてしまうことを指した比喩表現である。ところがA子はこの「大手術」という比喩表現を比喩として読まず、本当に病院で手術してもらったと理解しているのである。
 また、同じクラスに次のような感想もあった。


 この作者は、子どもころ映画の機械をオモチャにして育ったので、撮影や編集も自分でやっていて興味をもったから監督になって仕事を始めたのかなと思い、きっとそのお父さんは映画監督だと思う。(B子)


 B子の感想は本文中の「僕はほんの子供のころから、映画の機械をオモチャにして育った」という記述に強く反応しているようであり、そこから推論を働かせて「父親が映画監督だったから、子どもの頃から映画の機械に触れていたんだ」と考えたのだろう。しかしながら随想の前半部で、大林は青春時代、将来のはっきりした展望もなく、無為に過ごしている自分と、若い頃から医師を目指してひたすら努力を重ねてきた父親とを比較し、落ち込んだことを書いている。そして、この父親へのコンプレックスが大林を「さびしんぼう」にさせていくそもそもの大きな要因となっている。
 この二つの「誤読」に共通しているのは、いずれもある細部一点への着眼が強く、それが文章全体のなかでどのように位置付くのかということが読めていないということである。A子は大林の「さびしんぼうだった」頃とそこからの脱却、という筋を読み取っているにもかかわらず、それを彼の発想の転換、意識の変革の問題としては読み取れていない。それゆえ、「大手術」という比喩を比喩として読むことができない。彼女の中では、「さびしんぼうだった頃」「それじゃいけないという一念発起」「意識変革としての大手術」「大切な本をみんなあげてしまうこと」といった細部が、互いにつながりを欠いている状態であると言える。
 B子についても、「僕はほんの子供のころから、映画の機械をオモチャにして育った」という一文への着眼が強いゆえに、大林の医師である父親へのコンプレックスの記述を前半部のかなり重要な部分であるにもかかわらず、完全に読み落としてしまっている。それは、「映画の機械をオモチャに」という細部がテクスト全体において、一部としてどう位置付いているのかということを読めていないからである。
 つまり、二人とも「さびしんぼうだった青春時代」というテクストを全体としてつかむことができていないのである。
 この二人の事例はきわめて極端なものではあるが、このことは勤務校での授業において見たきた子どもたちの「読み」について、度合の差はあれ、ずっと感じてきたことである。一場面一場面を捉えることはできる。場面の状況や、そこでの人物の思いについて読むことはできる。しかし結局、それはどんな話だったのか、全体としてそのテクストが何を言っているのか、それぞれの場面場面がどのように結びつき、どんな全体の眺めになっているのか、ということが読めない。つまりそれは、細部と細部を関係づけたり、全体のなかで細部がどんな意味を持っているのかということを考えたり、テクストをひとつの「物語」として捉えることが出来ないということである。
 子どもたちに欠けている、そして身につけさせていかなければならない「読むことの力」とは、この「物語」として全体を捉える力、全体のなかで細部と細部を関係づけ、読み取っていく力なのではないかと考える。




2ー1.文脈のなかで細部を捉える
 それでは具体的に全体のなかで細部を関係づけて読んでいく力とはどういうものであるのか、そしてその力を育てていくためにはどういう手だてが必要であるのかということについて、以下、発表者の実践をもとに考察を加えてみる。
 
実践1:山田詠美『ひよこの眼』
 この実践は、本校夜間部三年C組(男子1名、女子3名)を対象に、二学期末考査前に行ったものである。『ひよこの眼』は授業で使用している教科書には採録されていない投げ込みの教材である。C組の生徒は四人とも能力的に高く、とりわけ読む力は優れている。 一学期、二学期と詩歌や随想など比較的短い教材を中心に扱ってきており、まとまった小説作品を読むのはこの作品がはじめてであった。そのため、教材文を一挙に与えて読ませるのではなく、作品を大きく四つの段落に分け、一時間ごとに提示して読んでいく方法を採った。
 大まかな指導過程については以下の通り。


  第一次 「ひよこの眼」というタイトルを聞いて、どのようなお話か想像させる。(題名読み)本文第一段を読む。
  第二次 本文第二段を読む。
  第三次 本文第三段を読む。
  第四次 本文第四段を読む。
  第五次 山田詠美「晩年の子供」を読み、「ひよこの眼」と比較しながら終末感想文を書く。(いくつかのテーマを設定、選択させる)


 授業の進め方としては、毎回配布した段落ごとに読解していき、授業の最後に「さーて、来週のひよこの眼は?」という形でそれぞれ三つのポイントについて物語の続きの展開を予想させながら読み進めていった。生徒の作品への興味を持続させていくとともに、限られた物語情報から、自分の頭のなかで物語(筋)を想像し、組み立てさせていくことを意図したものである。
 このとき、クラスで出された第二段落、第三段落そして結末の予想が以下の通りである。


(1)第一段落を読んで(第二段落の予想)
  @今後の二人の関係は?
  ・亜紀と幹生が友達として仲良くなる(C子)
  ・恋人関係になる(D子)
  A幹生が見つめているものの正体とは?
  ・自分自身の内面を見つめている(C子)
  ・何も見ていない。格好つけているだけ(E)
  B「ひよこの眼」とは何か?
  ・この物語は幹生の成長物語。最後に幹生がニワトリに変身する。だから「ひよこの眼」とは変身(成長)する前の幹生の眼のこと(E)

(2)第二段落を読んで(第三段落の予想)
  @亜紀が幹生の目を懐かしいと感じるのはなぜか?
  ・亜紀が忘れるほど昔、物心つく前に同じような目の人と会ったことがある。(F子)
  ・亜紀が昔飼っていたひよこの眼と似ていた。(C子、D子)
  A幹生が見つめているものの正体とは?
  ・自分の未来を見つめている。幹生は大人になりたがっている。(C子)
  B「ひよこの眼」とは何か?
  ・亜紀が子どもの頃に飼っていたひよこの眼。その眼が幹生の眼と似ている。親鳥になりたがっているひよこのように、幹生が大人になろうと必死になっている眼。(C子)

(3)第三段落を読んで(結末の予想)
  ◎ズバリ、結末の予想は?
  ・幹生が抱えている不安を亜紀と一緒に乗り越えていく(C子)
  ・幹生がニワトリになる(E)
  ・幹生は死ぬ。お父さんが借金取りに追われていることが原因になるのでは?(D子)


 予想のポイントは、a)物語の展開(流れ)に関わるもの、b)物語の内容に関わるもの、C)物語のテーマ、要点に関わるもの、の三つの系統に分けられる。a)は(1)ー@、(3)であり、b)は(1)ーA、(2)ー@、A、そしてC)は(1)ーB、(2)ーBにあたる。
 (1)ー@は素直に物語の今後の展開を問うものであり、C子、D子はいずれも幹生と亜紀の関係が親密なものとなっていくと予想している。これは、物語冒頭、亜紀がはじめて幹生に出会ったときから、彼の眼に「なぜか懐かしい気持ち」を抱いていること、その後も亜紀の視点がこの影のある転校生の瞳に注がれているといった物語の描写、細部から推論が可能であるが、同時に「思春期の男女を主人公として展開される物語」といったフレームのようなものが学習者のなかにはあったのではないかと考えられる。このことは、二段落、三段落と読み進めていく上で、C子から「先生、なんかこの話ジブリみたいじゃなぁ」と言った声があがってきたことからもうかがえる。C子が言う「ジブリ」とは、言うまでもなくスタジオ・ジブリのアニメ映画のことであり、彼女がこの『ひよこの眼』との類似を感じていたのは高畑勲の『耳をすませば』であった。また、D子は第二段落を読み終えた後、「なんか、ベタな展開ですね」という感想を漏らしている。「ベタな展開」と彼女が感じる背景には、彼女自身のなかに、こういった思春期の男女を扱った物語の定型、類型のイメージの存在がある。
 とりわけこの文脈に忠実に物語を立ち上げていったのが、C子である。(1)ーAを出発点として、二段落を読み終えた段階で、「ひよこの眼」を「亜紀がむかし飼っていたひよこの眼」であるという、物語の核心部分に迫る読みを行っている。そこからC子は大人になろう、大人になりたいと「必死になっている眼」を親鳥になりたがっている「ひよこの眼」として捉え、幹生が絶えず見つめている「何か」を「自分の未来」だという一連の読みを遂行していく。A子はこういった「思春期男女の物語」というフレーム、文脈のなかでテクストの細部を読みすすめ、最終的にこの物語の結末を「幹生が自分の不安を亜紀と一緒に乗り越えていく」というハッピーエンドとして物語を捉えている。
 逆に、この「思春期男女の物語」というフレーム、文脈から外れたところで結末の読みを行ったのが、D子であった。彼女はクラスのなかで唯一、物語の結末をハッピーエンドではなく、「幹生の死」によって幕が下りることを予想した。以下のスクリプトは、予想を出したあとの教師(発表者)とD子との対話である。


T  どうして、そうなると思った?
D  三段落の一番最後の行に「幸せだった」ってあるじゃないですか。過去形になってる。だからここまでが「幸せ」だった過去で、このあと、不幸な展開になるんじゃないかなぁって。
T  へぇ〜、すごい、面白いところに気がついたね。
D  最初に、このお話は亜紀の回想の物語だって言ってたじゃないですか。だから、ここで「幸せだった」っていうのは…
T  不吉な感じがする?
D  はい。



 このD子の読みは物語内容の読みから物語の「語り」の読みへの移行である。それは、物語のストーリー駆動の読みから、要点駆動=物語を構成しているポイント、意図の読みへの移行の可能性を孕んだものである。(*1)
 彼女がこの読みの転換を行っていった背景には、ひとつには彼女が第二段落までを読んだときに「ベタな展開ですね」と発言していたことが関係している。つまり、彼女はジブリ的「思春期男女の物語」というフレームに対しては比較的醒めた見方をしており、そのことが、彼女自身が「思春期男女の物語」文脈から脱け出して読みを遂行していくことを容易にしていたということである。
 もうひとつは、彼女が指摘している「回想形式の物語」というフレーム、文脈の存在である。第一時、第一段落を扱った際、授業のなかで冒頭の語り、「私は、その時、まだ中学三年生だったし、その年齢で懐かしがるべきことなど、ひとつもないように思えた…(以下略)」を捉え、この物語が亜紀の回想によって成っている物語であるということを簡単に確認した。このことが彼女が第三段落の「語り」に着目する契機となっている。
 以上のように、C子もD子も、それぞれが立ち上げた文脈のなかで、細部の読みを遂行している。このことが顕著に顕れているのが、幹生の不幸な人生をどう考えるかということについて、C子はそれを「亜紀とともに乗り越えていくもの」として捉えているし、D子は逆にそれが幹生を死に至らしめる因子となるのではないかという捉え方をしている。
 また、ここでは、彼らの読書経験やドラマ、映画などの物語体験を通して形成された物語のフレーム、物語文脈とは別に、もう一つ、授業の場で起こる様々な出来事、発問と応答、読みの語り合い、教師の指導言などの発話行為から形成される「授業の文脈」(*2)のようなものが存在しており、その授業の文脈が学習者たちの読むことの文脈に大きな影響を及ぼしているということがうかがえる。それは「回想形式の物語」という文脈を立ち上げさせたD子にとっての第一時の語りの現在の確認に限らず、例えば(1)ーBでのEの発言、これは「幹生の成長物語」であるという読みは、「思春期の男の子の成長物語」という「思春期男女の物語」文脈にきわめて近接した文脈を提起し、その後のC子の一連の読み、とりわけ、「大人になろうと必死になっている幹生」という読みを促し、「思春期男女の物語」という文脈を補強する役割を担っている。
 「読むこと」の授業のなかでこの「授業の文脈」の役割は非常に大きい。それぞれの実体験や読書体験、その他の物語体験をもとに形成される物語文脈、フレームの固定化された読みではなく、常にそのフレームなり文脈なりに揺さぶりをかけ、それをときには解体させ、ときには補強し、ときには新たな文脈を形成し、読みの更新、深化を促していく。
 学習者たちの、全体を捉えていく力、全体のなかで細部を読ませていく力、「つなげる力」を促していくために重要なことは、文脈を立ち上げ、その文脈を意識させて細部への読みを促していくということ、そして、その文脈を揺さぶり、自ら解体し、また立ち上げさせていくよう仕向けていく「授業の文脈」を立ち上げていくということである。




2−2.物語を立ち上げていくために
 文脈を意識させ、文脈のなかで細部を捉えさせていくために、どのような手だてが考えられるだろうか。一つの試みとして、発表者の次のような実践を挙げてみる。

実践2:鎌田敏夫『恋愛会話』
 本作品は、全編会話だけから成る小説である。地の文はおろか、脚本のようなト書きさえ付されていない。この実践では『恋愛会話』に収録されている一篇「雨やどり」を使い、会話から物語の情景を想像し、途中、いくつか空白にしている会話部分を埋めさせるというものである。本校夜間部一年生C組(男子4名)で実施した。全一時の大まかな指導過程は次の通り。


@)全文を二人ペアになり、会話形式で音読する。
A)ワークシートに沿って、物語の設定、情景、会話のシチュエーションを想像し、全体で確認する。
B)本文中の空白部分@〜Dにどんなことばが入るか、考え、発表する。


 まず、ワークシートの五つの設問を考えさせることで、どういう二人の間で交わされている会話なのか、どういう場所、シチュエーションで会話が行われているのか、会話のなかで出てくる登場人物は二人とどういう関係にある人間なのか、二人の男の性格はそれぞれどのようなものであるのか、と言うことについて会話から想像し、どういう状況で会話がなされているのか、という物語のフレームを立ち上げさせる。このとき、会話のどの部分からそれが想像できるか、ということを指摘させ、クラス全体で話しあわせ、膨らませておく。
 これら五つの設問を通して立ち上げられた会話物語の文脈をもとに、空白にされた一部の会話のことばを想像させ、埋めさせていく。@〜Dそれぞれ空白にされた会話部を埋めていくためには、前後にどのような会話が交わされているかという細部をつなげていく力と同時に、この会話がどういう二人の会話なのか、会話に頻繁に出てくる「萌子」という女性は何者なのか、といった基本的な大枠の部分、物語文脈を参照し、そのなかで会話を考えていく必要がある。
 このように物語文脈と細部との往復運動を繰り返させることが、空白を埋め、細部をつなげ、物語を立ち上げていく力を活性化していくひとつの手だてとなるのではないだろうか。




3.「つなげる力」から「つながっていく力」へ
 「読むこと」の学習で重要なことは、それが文学的な文章であろうが説明的な文章であろうが、読むことによって学習者自身の認識が更新、深化、拡充されていくところにあるということは言うまでもない。「読むことの力」は、まさにその部分へと向けられていく必要がある。
 実践1で、『ひよこの眼』を読んだC子が「ジブリみたい」と感じ、一方でD子が「ベタな展開」と感じ、それぞれがそれぞれの文脈を立ち上げ、その文脈の中で異なった肌理の物語を紡いでいく。それは、物語を「つなげて」いくと同時に、彼女たち自身が物語へと「つながって」いく過程でもある。彼女たちが読みを遂行していく過程で立ち上げた物語文脈には、彼女たち自身の読書体験、物語体験、実体験からなる主体の文脈が投影されている。それは「読むこと」の授業の文脈(発問と応答、学習者相互の「読み」の語り合い、教師指導言など)のなかで顕在化するとともに、他の学習者たちの文脈と出会うことによって、解体され、組み替えられ、更新され、深化されていく。
 子どもたちに育てていきたい、必要な「読むことの力」は、細部を全体のなかで捉え、物語を「つなげていく力」であると同時に、読むことによって学習者自身が物語に、そして他者に、新しい世界に「つながっていく力」であると考える。


実践3:連歌に挑戦
 この実践は実践1を行った同じクラスで二学期序盤、単元「短歌と俳句」のなかで行った試みである。まず学習者全員に、「あとに誰かが続ける」ということに留意させて上の句を作らせる。そして回収した上の句をすべてプリントして学習者に配布し、そのなかから自分のもの以外を一句選び、付け句をさせた。最後に授業のなかでそれぞれの付け句を発表させ、クラスで簡単な合評させた。またプリントに発句を印刷する際、詠み手の名前は伏せておくのだが、付け句を発表させたとき、上の句の作者を明かし意見を求めると、「自分のイメージしていたものと違った歌になったが、そういう見方も出来るのかと感心した」「思ってもみない展開になって、面白い」といった感想が聞かれた。また、付け句をしてみての感想としては、「上の句を詠んでいろいろ想像しながら下の句を考えるのが面白い」「付けやすいものと付けにくいものがある。付けやすいのは場面がいろいろ思い浮かぶようなもの」といったものが挙がった。
 このなかで、発表者自身が担当した発句に、D子とEは次のように付け句している。


   帰り道ためらいがちに手をつなぐ(発表者発句)


                    老いた夫婦にあこがれいだき(D子)
                    母と子どもの愛情表現(E)



 発表者は、学習者たちが付け句することを考え、彼らと同じ年代の若いカップルの姿を思い浮かべて発句を詠んでいた。ところが実際にはD子はそこに仲睦まじい老夫婦の姿を読み、Eは母と子の姿を読んだ。
 この短いことばから立ち上がる物語は、実に多様で複雑である。それは「つなげ方」の偏差であり、また、「つながり方」の偏差でもある。このことが顕在化する場として「授業の文脈」を組織し立ち上げていくことが、子どもたちの「読むことの力」を活性化していく上で、重要となってくるのではないだろうか。




4.おわりに
 吉本ばななの『アムリタ』(*3)には、事故で頭を打ち、細かな記憶を失った主人公がある物語を読んだことがきっかけで、一挙に記憶を取り戻す場面が描かれている。


 私は動揺した。なんでこんなきっかけでこんなことになってしまうのだろう?
 それらはどんどん流れを作り、筋道にそってあっという間に並べかえられてひとつの物語を作ろうとしていた。その処理は勝手にどんどん行われ、私はただ見ているしかなかった。それが何を創るのか。
 私、という物語、自分史、といわれるもののもっと高度で、もっと完璧なもの。完成されていて丸くて立体で、私の情の入る隙間もないほど厳密なもの。
 大きな渦巻き、まわりじゅうの人々や、出来事を海みたいに取り込んで、満ちて引いて私独自の色に染め抜かれた世界に一つしかない、あるいは皆と共通の一つのシルエットを創る流れのらせんを感じた。(pp.106-107)



 主人公は、以前に自分が読んだ本をそれと知らずに読み進めていくうちに、そこから立ち上ってくる独特の「懐かしい」という思いに刺激される。そこから彼女は、自分がその本をはじめて読んだ日の情景、傍にいた人の顔、そのときの自分の思い、といった具合に次々と記憶の断片を取り戻していく。そしてそれは、「筋」をなし、彼女自身の「物語」が紡がれていく。彼女はテクストを「つなげて」いくことで、自分自身がそこに「つなが」り、「つなげられて」いく。
 彼女は記憶をなくしたところからそれを取り戻していくという特殊な状況にあったわけであるが、そうでなくても、我々の日常における自己への認識、見方というのは彼女のそれに近いはずである。ほんの些細なこと、感覚、経験、思いの断片を、我々はただ無造作に積み重ねているわけではない。それはある視点から構成され、「つなげ」られた物語として記憶され、そこから自己という物語を立ち上げているのである。
 ここで彼女が自分の物語を取り戻していくきっかけとなったのが、物語を読むことであったというのが実に象徴的である。物語と物語が出会ったとき、そこにはなにか、新しい出来事が生まれていく。学習者と教材、作品との出会い、そして学習者相互の出会い、あるいは学習者と教師の出会いのなかでも、何か新しい物語が紡がれていく筈である。
 物語を「つなげる」ことで、そこに自分自身が「つながっていく」ということ、そのことのなかに、「読むことの学び」の可能性があり、そこに「読むことの力」が「つながっていく」必要があるのではないだろうか。



*1:R.ビーチ著 山元隆春訳『教師のための読者反応理論入門−読むことの学習を活性化するために−』溪水社
1999 山元隆春『文学教育基礎論の構築−読者反応を核としたリテラシー実践に向けて−』溪水社、2005

*2:拙稿「文学の授業に対する教師主体のかかわり方と『学び』の成立に関する考察」 『教育学研究紀要』第49巻、中国四国教育学会、2004
*3:吉本ばなな『アムリタ(下)』角川文庫、1997



(第四十六回広島大学教育学部国語教育学会 研究協議:「読解力」をどう捉え、どう育てるか 発表資料) 



Copyright (C) 2005 Takashi Otsuka

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