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   「教育改革」以後の文学教育

山元隆春(Takaharu Yamamoto)

 「文化審議会答申」はこれからの「国語」のあり方についてのヴィジョンを提示している。そこに記されているのは、「国語」がどのようなかたちで子どもの将来にかかわるのかということであるように見える。この答申のなかで、「文学」は「情緒力」という「力」概念と結びつけられ、また「読書活動」と結びつけられているように見える。「情緒」を「力」として把握しなければならなくなった状況とは何か。いや、そもそも「情緒」とは何か。

 「情緒力」を育てるものとして「文学」をとらえるとして、その「文学」とは何か。残念ながら、「答申」にはそのことが示されていない。「情緒」がひとのものであるとするなら、それはそのひとの生きる個別具体の状況のなかでしかはぐくまれないものである。「文学」によってはぐくまれる「情緒」というインパーソナルなもの言いは、ほとんど意味をなさない。「羅生門」で、「山月記」で何がはぐくまれるのか、というふうに述べていかなくてはならないことではないのだろうか。もちろん、「答申」であればこそ、そのような個別の状況を問題にする暇はないのかもしれない。だが、そのようなことを言ってしまって「文学教育」を云々することは不可能である。

 「言語感覚」「思考力」「想像力」という現行指導要領に見られる文言もそうである。何を根拠として私たちはそのような概念を授業の目標に盛り込んでいけばよいのか。

 「情緒」はこれまで「心理学」がその分析対象としてきたものではなかっただろうか。そして「心理学」は「情緒」をどのように扱ってきたのか。「情緒」は「安定しているかしていないか」という把握のされ方をしてきたように思われる。「答申」に言う「情緒力」は「安定」した「情緒」を維持する「力」なのだろうか。では「情緒」の「安定」とはどのような事態を指すのか。

 ひとの「情緒」をそのひとが取り囲まれている環境と切り離すことができない、ということはそれほど間違った考え方でも言い方でもないだろう。だとすれば、「情緒力」は「文学」で育つのではなくて、「羅生門」を読む読者が自身の取り巻かれている環境ないし状況とのかかわりのただなかで、「羅生門」の呼びかけ構造に反応しながら育てていくものであると言ってよい。そのような場は明らかに混沌としていて曖昧な空間である。自らの生活の場そのものでもなく、さりとてまったき虚構の場でもない、過去でもなく未来でもない、まったくもって曖昧な空間において、私たちは「羅生門」に出会う。むしろ、そのような場こそが重要なのであって、「情緒力」を高める「文学」を探し求めるというような行き方は本末転倒である(「情緒力」を高める「文学」と「情緒力」を高めない「文学」とを峻別することなど私の力ではとてもできない。そのようなわけのわからないことは、できない。できるというひとがいるとするなら、そのひとは自分の見方を述べているだけのことである。それが、国の将来を思って、すべてのひとに確かな「国語力」を育てるための見解になると考えることは、とうていできない。)。「情緒」の方が「文学」よりも範囲が広いか、もしくは住み処が違うからだ。曖昧な空間を生き延びる経験を繰り返すからこそ、「情緒」なるものははぐくまれるのではあるまいか。しかし、「安定」するのかしないのかはまったくもってわからない。

 百歩譲って「情緒力」をはぐくむことがたいせつだという意見に賛成するとしよう。そのためには、ばらばらの「情報」を「統合」する「力」を育てていかなくてはならないはずだ。いや、ばらばらの「情報」に感応することを「情緒力」と言うのであれば、それは読者に「考えるな!」と言うに等しい。既製の見方が示された文章を受けとめて「いいなぁ」と言うことができる「力」が「情緒力」であるとするなら別だが。

 大人が、目的を持ちながら生き、その生きる必要のあるなかで、手持ちの「ことばの力」を用いながら、何とか読み、書き、聞き、話す姿を子どもの前に示すことがまず必要なのである。大人が自らの「情緒」を育んでいく姿を子どもの前に示すことなく、子どもにそのことを求めることなどできはしない。

 「情緒」などを表面で云々してはならない。「内面」を操作するようなことをしてはならない。それはこれまでの「心理学」が教えてきたことではないのか。明言化することでどうにかなる問題ではない。「情緒力」を重んじる教育、「情緒力育成」などということを言うような教育は、明らかに教育という名の「治療」を施そうとするものである。これは、「荒療治」であるとしか言うほかない。この国の将来のためにそのような「治療」が必要であるとは思わない。

 はたして「文学」はまだ学校教育においてなんらかの場所を占めているのであろうか。もちろん、この問題は、「教育改革」が何を「改革」しようとしたのかということと無縁ではない。

 明らかに「文学」の内側ではなくて、その外側を問題にしていかなくてはならないだろう。「文学」の外側?それはどこにあるのか。そんなものはないのかもしれない。いやあるのではないか。そのような、ある/ないの二分法的議論はことをみにくくしてしまうだけだ。児童・生徒たちの前に「ごんぎつね」は「ある」のだし、「山月記」も「ある」のだ。しかし「ごんぎつね」に「山月記」に、ひとは何を期待するのか。

 ひとは壊れやすいものだということを前提として、ひとを理解していくということを私たちはしっかりと行っていく必要がありはしないか。

 「戦後」というよりも「戦前」と呼んだ方がよさそうな「現在」において、「文学教育」が選び取らなければならないのは、「文学」を「わたしたち」以外の誰かのために用いるという行き方を徹底的に拒むということではないか。「文学」はこういうものだと決定してそれを「わたしたち」の生きる今とは距離のある何かのために用いるという道を選ばないということなのではないだろうか。

 「文学」そのものにこだわるということが必要だ。しかしそれは「文学」のためではない。「わたしたち」のためである。「ごんぎつね」に徹底的にこだわるが、しかしその営みを「ごんぎつね」のためにでも新美南吉のためにでもない営み、つまり、「わたしたち」のための営みにしていかなくてはならない。

 「社会的実用性」を求めることは大いに結構なことである。わたしたちは食わなければならない。しかし、そのために「文学」を用いてはならない。そのために用いる教材・教具を「文学」から選び取る必要はない。あるいは「徳性」を育てたり、「情緒力」を育てるために「文学」を選び取る必要はない。それは、「文学」をこういうものだとラベリングしてしまうことになる。ラベリングの主体は「わたしたち」ではない。もしもそのようにしてしか教育で「文学」が生き残れないというのなら、「文学」を扱うことをやめてしまうことだ。

 誤解しないでほしい。「文学教育」が必要でないと言っているのではない。「わたしたち」以外の誰かのために、「わたしたち」から離れた目標のために「文学」を用いることを拒まなければならないと言っているのだ。「こころ」ないことだろうか。では夏目漱石の「こころ」は「わたし」に、「わたしたち」から離れなさいというメッセージを送っているだろうか。違うと思う。「こころ」は「わたし」に「わたしたち」から離れるなと、「わたしたち」のなかに「わたし」があり、「わたし」のなかに「わたしたち」があるというメッセージを送っている。むしろ「わたしたち」から離れることをしてはならないから、先生は「記憶してください。私はこんなふうにして生きてきたのです。」という遺書を遺したのではないか。

 ショシャナ・フェルマンや岡真理が言及しているバルザックの「アデュー」。フィリップがステファニーにしたこと。彼女の正気を取り戻すためにしたこと。彼女のためにしたこと。そのことを「文学教育」を通じてわたしたちが行ってはならない。フィリップがステファニーのためにと思ってこしらえた戦場は、フィリップのためのものでしかなかった。その戦場でスファニーは息絶えた。凄惨なドラマだ。フィリップがフィリップのなかのステファニーしか見ていなかったから。 「教育改革」以後の文学教育をそのような凄惨なドラマにしてはならない。


 「読むこと」は既知の世界と未知の世界とを重ね合わせる営みである。文学作品には読者側の「既知」を喚起するという働きがあると言ってよい。喚起されたことを言語化し、それをテクストのことばと照らし合わせながら、読者は各自の読みをつくっていく。「既知」と思われていたことが「既知」ではなかったということがそこであらわになる。

 テクストの描き出す世界はその読者にとって「未知」の領域に属するものであると言えるだろう。しかし、「再読」の場合にはまったくの「未知」であるとは言えないかもしれない。しかし完全に「既知」のことがらでもない。「既知」と「未知」とのあわいにテクストが位置すると言ってもよいだろう。

 それだけではない、文学を読むことを通じて、読者の方も「既知」と「未知」とのあわいに立たされる。「既知」と思っていたことの「未知」の領域が明るみに出されるということに、文学を読むことの大切な意義があると言ってよいだろう。しかし、「情報駆動」の行き方は「既知」と「未知」とのあわいに私たちが佇むことをゆるさない。むしろ「未知」の領域をすべて「既知」の領域に取り込んでいくことをめざしているかのようなものである。文学教育を、「既知」と「未知」とのあわいに佇む領域と捉え、これを保っていくことがなぜ必要なのかと言えば、それは、ひとという存在が「既知」と「未知」とのあわいに佇んでいる存在だからだ。もちろん、曖昧なままですべてを済まそうとしている存在だと言いたいわけではない。そうではなくて、日常生活で私たちは絶えず「既知」と「未知」とのあわいで行き悩むものだと言いたいのだ。そればかりではない。「既知」と「未知」とのあわいに立って、行き悩むからこそ、私たちは新しい我を見出すことができるのではないか。それは文学教育と言わなくても、教育という営みがそのようなことを絶えずめざしながらなされてきたし、これからもなされていかなくてはならない営みだと考えるからである。

そうであればなおのこと、「教育改革」以後の文学教育において重要なのは、「既知」と「未知」とのあわいで、ひとが考えたことにもとづいて、読み書き、聞く話す実践をどのように仕組んでいくのかということであるように思う。社会的標準としての「リテラシー」ではなくて、ひとびとが生きるために必要な「リテラシー」を求めていくことである。児童・生徒を「既知」と「未知」とのあわいに立たせて、考えること、感じること、をどのようにデザインしていくのか。これは、文学でひとは何をなしうるのかという問いかけと同じである。

(『日本文学』2005年10月号) 




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